働きすぎるとはなにか

「〜過ぎる」とは許せなくなることなのかもしれない

人はそれぞれ独自のバランスで生活をしているし、自分もある程度ゆとりをもって生きていかなきゃならない。そんな話。

昨年春から今の職域に移り激流に流されながらも「どうにかしないといけない!」という気持ちで日々必死に仕事をしてきた。

でも、当然だけど人にはそれぞれの生活スタイルや大切なものがあって、それが冒されるようなことは避ける。極端な例を挙げれば、プライベートでやりたいことがあるので指示された事以外はやりません、というような形でそれは表れる。

僕自身は、やるべきことややったほうが良いことは山程あるし、どんどんやっていかなければならないという気持ちでいたけれども、その気持が高まりすぎてそれぞれの事情や考え方を許容できなくなっていき、辛くなっていった。

一日の大半を過ごす職場で自分以外のそれぞれのメンバーの考えかたを許容できないというのは、とても厳しい状況だ。物理的には人に囲まれているのに、精神的には孤独ということになる。

そうなると同僚の話し声が聞こえることですらストレスを感じるし、ちょっとした意見が自分を否定するメッセージに聞こえてくる。すべてが許せない状態になる。

僕はあるきっかけからこの状態から抜け出すことができたけれども、それは

自分を壊してまで頑張ることは誰も求めていない = 自分らしくいることが許されている

と捉えることができたからだ。 もちろん環境によっては自分を壊してでも頑張れとなっているところもあると思う。その場合にはなんとかしてその環境から逃げてほしい。

そういった場合を除いて、一定の関係性ができている環境では人はそう簡単に敵になったり味方になったりしない。一緒に働く人の多くは意識的にせよ無意識にせよ、自分も仲間も幸せな状態で仕事をしてほしいと思っているはずだ。売上ノルマなどの外圧によって仕事上の考え方の違いがでることは当然あるけれども、それは手段に対する考え方の違いであって、幸せに楽しく仕事をしたいという根本的な願いは変わっていない。それは僕自身もそうだ。

楽しく仕事を続けるのに趣味の充実が必要ならその時間を無理なく確保するレベルで仕事をして、幸せに過ごしていてほしいし、職場で朗らかに過ごすために定期的に飲み会が必要ならそうしてほしい。

人が辛く苦しく過ごしているのを見たくなんてない。目の前の同僚ならなおさらだ。

そうやって、僕たちは自分が自分らしく生きることを許されている。だからそれぞれの生き方や時間の使い方を、自分にも周りにも許してあげよう。

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